共通テストまであと98日 日本史探究で受験生がつまずく知識・用語を解説②
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- Опубликовано: 20 янв 2025
- 【共通テストまであと98日!】 日本史探究で受験生がつまずく知識・用語を解説②
共通テストまであと98日です。
日本史探究で受験生がつまずきやすい知識や用語を取り上げて解説します。
コツコツ勉強して日本史探究で満点を目指しましょう。
今回は、『文永の役』と『文禄の役』です。
同じような元号の名前がついているので、区別がつかなくなる受験生がいますね。
二つを簡単に説明すると
『文永の役』は、1274年の元寇の1回目です。
『文禄の役』は、1592年~1593年に豊臣秀吉が起こした、朝鮮侵略の第1回目です。
では、それぞれを詳しく見ていきましょう。
最初は、『文永の役』です。1274年10月に、元のフビライは、服属を拒否した日本に侵攻してきました。これが1回目の元寇です。元軍・高麗軍約3万が対馬・壱岐に侵攻し、その後筑前の博多に上陸しました。集団戦法や「てつはう」などという当時の日本人には全く見たことのないものに悩まされましたね。しかし、元軍の得意なのは陸戦であって、海の戦い方を知りませんでした。だから、せっかく奪い取った領地に野営せず、海にある船に戻って夜を過ごしたため、暴風雨によってあっという間に壊滅しました。しかし、最近では、暴風雨はなかったという説もあります。文永の役は、日本を脅しに来ただけで、すぐに元軍は引き上げたから博多からいなくなったというのです。山川出版の教科書には、「元軍も損害が大きく、内部対立などもあって退いた」となっていて、山川出版の用語集は、「暴風雨もあって撃退」とあるので、曖昧ですね。元軍の撤退については、あまりこだわらなくて良いでしょう。それよりも、文永の役では、元軍・高麗軍合計約3万人だということと、2回目の元寇である弘安の役では、朝鮮半島南部から押し寄せた東路軍4万人、中国の長江の南から直接押し寄せた江南軍10万人、合計14万人の軍隊が襲来したことを覚えておきましょう。
次に、『文禄の役』について詳しく見ていきましょう。
1592年から1593年にかけて起こったことですが、15万余りの軍を朝鮮に送り、秀吉自らは肥前の名護屋城で指揮をとりました。朝鮮の義兵や明の援軍によって、戦況は膠着状態でした。義兵とは、義民軍とも言い、朝鮮の地主らを指導者として結成された抗日私兵集団です。センター試験の時は、追試験でしばしば『義兵』という言葉も出てきましたので、覚えておいた方が良いです。文禄の役は、1593年に一旦は講和します。この時、秀吉は、日本が勝ったと思っています。しかし、明や朝鮮側も自分たちが勝ったと思っていたので、和平交渉に食い違いが生じました。そして秀吉が激怒して、1597年にまた出兵をすることなったのです。これが、2回目の慶長の役となります。この戦いで、日本軍が苦戦しているうちに秀吉が亡くなり、撤退しました。共通テストで覚えておきたいことは、文禄の役・慶長の役のことを朝鮮では『壬辰・丁酉の倭乱』と言います。「壬辰」という字は、「壬申の乱」の「壬申」とは違いますので、気を付けてください。さらに、朝鮮水軍の将軍李舜臣が活躍し、亀甲船を考案して、日本軍を苦しめたことを覚えておきましょう。文禄の役の時に明の将軍が朝鮮に援軍として駆け付けましたが、その将軍は李如松です。同じ李ですが、間違えないようにしましょう。李如松については、レベルが高いので、共通テストでは出ないと思いますが、一般試験での知識として、余裕がある人は押さえておきましょう。
本日の動画はここまでになります。
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共通テストまで、まだまだ時間があります。
コツコツと頑張りましょう。
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